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プロフィール
清野充典
 西洋医学を理解した東洋医学者の育成を目指し設立された世界初の鍼灸医学専門教育機関「明治鍼灸短期大学(現明治国際医療大学)」鍼灸学部を1982年(昭和57年)3月に卒業。中国に留学後、東京都調布市で1987年(昭和62年)に開業。東京都での開業は卒業生第1号。アジアや欧米で行われている鍼灸医療を各国に出向き探求しているうちに、日本で行われている鍼灸医療や中国等で行われている鍼灸医療の相違に疑問を持ち研究活動を開始。東洋思想の最高学府である「大東文化大学大学院」文学研究科博士課程前期課程中国学専攻を修了。中国哲学を背景とした中国医学が日本や世界においてどの様に発展したのかを探求している。世界に共通した鍼灸医学用語を用い、医療現場に共通する鍼灸治療体系を確立することが研究目的。鍼灸学士、中国学修士。現在、順天堂大学医学部医史学研究室に研究生として在籍。医学博士の学位論文を鋭意作成中。2013年(平成25年)4月明治国際医療大学(旧明治鍼灸大学)客員教授就任。

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Posted by たまりば運営事務局 at

近代中国の鍼灸医学・医療の歴史

2011年01月29日

 今日は、清国以降の中国医学・医療の歴史です。ほとんどの皆さんは、中国3000年とも4000年とも言われる中国で発祥した医学・医療は、ずーっと太古の頃から今まで継続して行われている、と思っていると思います。でも、実際は、近代になり中国国家は、自国の医学を136年間捨てています。今日は、そのあたりの話です。 

 【本文】

 中国では、一八二二年に「鍼灸の一法、由来已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究むところ奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。」という勅令が発せられた。つまり、「皇帝の体に鍼や灸をする行為は許されない。」というおふれにより、宮廷の太医院で鍼灸科が廃止されたのである。

 当然、皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけないこととなり、以来、鍼灸治療は衰退の一途を辿った。

 我が国に於いても、「明治初期に鍼灸治療をのぞいた漢方医の医療行為を認めず、復興運動が開始されるまでの三〇年間ほぼ断絶したため、日本の伝統医学が三〇〇年ほど後退した。」と真柳誠が言っているように、国家が医療として認めなくなった医学・医療の衰退は激しい。

 中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となる。

 一九四九年に設立された中華人民共和国以降も、鍼灸治療は国民医療として認められていない。新中国政府は、古代から清朝までの医学体系を医学・医療と認定しなかったためである。このことは、一九一一年に設立された、中華民国政府と同様の見解であった。

(つづく)

平成23年1月29日(土)
 清野充典 記

(ただいま 6日に一度更新中)   


  • 日本の鍼灸医学・医療の歴史

    2011年01月23日

     1月17日(月)に書いた内容はお読みいただけたでしょうか。内容は継続していますが、どこから読んでも理解できるように、なるべく短編完結型で書きたいと思っています。今のところ・・・・。耳慣れない言葉が多いと思いますが、専門家の皆様には、是非、お読みいただきたい・・・です。

     今回は、「日本の鍼灸医学・医療の歴史」についてです。

     【本文】

     日本に於ける鍼灸医学・医療の歴史は長い。

     四一四年に天皇が病に罹られた際、新羅の名医金武を日本に招き鍼治療を受けたが、これが日本に初めて鍼治療が伝来した史実である。

     その後、百済と交流していたが、五六二年に呉の人・知聰が中国から初めて来日している。彼は日本に帰化して薬書や明堂図など一六四卷を獻上している。

    以来、約一五〇〇年にわたり、継続して中国医学を受容して来たことに成り立つ長い歴史と、多くの優秀な研究者達による澤山の書籍が残されている。また、日本特有の治療技術が生み出され伝承されている。

     清野は、鍼灸治療および湯液治療に於いて、日本は中国に無い独自の理論体系を持ち、より安全で且つ高水準な鍼灸治療技術や独特な方法が開発されて来たと認識している。

     九八四年に丹波康頼が書いた『醫心方』は、明確な日本化の表れを示す最初の文獻である。わが国では、鍼灸治療が国家の医療として行われ、現在も国民医療として重要な役割を担っている。

     一九七八年より、鍼灸医学は高等教育化に移行し、二〇一〇年一月現在、大学院四校・大学九校が開学している。四月には大学が一一校になる予定である。

     日本は、一六〇〇年ほど前から現代にわたり、世界で唯一鍼灸治療を国家医療として継続している国である。

    (つづく)

    平成23年1月23日(日)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)  


  • 日本における「医」の呼称についての歴史

    2011年01月17日

     これから、東洋医学について話を始める。おそらく初めて聞く(読む)話が多いことと思う。眠くなる話かと思うが、一気に読まず、何度も読み返していただければ理解可能かと思う。

     初回は、日本における「医についての呼称」から述べる。

     【本文】

     日本では、江戸時代まで「医学」とは言わずに「医」と呼称していた。
     
     「医」を行うものを特に規定していなかったが、学問をしている「僧」つまり坊主が主に行っていた。

     江戸時代まで「漢学」・「中国の医学」を受容してきた日本は、一五四三年(天文十二年)にポルトガルの船が種子島へ漂流したことにより、初めて西洋の文化を知ることになる。

     長崎の出島から入手する学問の多くはドイツ語の蘭訳本であったが、日本ではこれを「蘭学」と呼称し、蘭学を学んだ医者を「蘭(学)医」と呼称した。それに対比する言葉として「漢医」という名称が生まれている。

     一八五七年(安政四年)に「商館医」ポンペ ファン メールデルフォールト J.L.C.Pompe van Meerdervoortが長崎大学医学部の前身である「醫学伝習所」において近代医学を初めて日本人に教育してから一五〇年あまり經過したが、当時各国から書物が輸入研究されるようになったため、欧米の学問はほどなく「洋学」と呼称されるようになる。

     一八六九年(明治二年)に明治政府は「医学校」を「大学東校」と改称し、近代医学教育をする学部と日本古来の医学を教育する「皇漢医学部」が併設される。

     一八七四年(明治七年)に「医制」が施行され、医療は「医師」が行うこととなり、近代医学に基づく教育中心に移行した。また、「皇漢医学部」は廃止されたため、日本伝統の医学・医療が徐々に衰退する。

     一八八三年(明治一六年)に、今村了庵が、一八八七年(明治十年)に設立された東京大学に於いて講義されていた「東洋学」という名称に着眼し、医学部医史科の講義中に「東洋医学」の呼称を用いた。

     翌一八八四年(明治一七年)に、『溫知医談』(温知社)でその名称を紹介して以来、徐々にその名が普及し現在に至っている。

     以上が、「医」から、「漢医が行う医」となり、「皇漢医学」、「東洋医学」と呼称が変遷してきた、日本における「医についての呼称」の歷史である。

     なお、「蘭医が行う医」は、「近代医学」、「現代医学」といわれているが、「東洋医学」という言葉が民間で使われ始めた1980年代以降から、徐々に「西洋医学」といわれるようになってきた。

     近年は、「近代西洋医学」と「現代医学」という表現がよく用いられている。

    (つづく)

    平成23年1月17日(月)
     清野充典 記  


  • Posted by 清野充典 at 01:02Comments(0)日本の「醫」の呼称の歴史

    東洋医学を知るための歴史

    2011年01月11日

     「東洋医学」を理解するためには、「東洋医学」の歴史を知ることが大切であると考える。

     「東洋医学」と言うようになったのは、明治以降であるが、何故「東洋医学」と言うようになったのかを知る人は少ない。

     「東洋医学」を紐解いていくためには、「明治期」の歴史を知ることが重要であると考えている。

     ところが、日本人はつい最近の時代である「明治期」をあまり知らない。これには理由がある。

     日本では、社会の授業は、小学・中学・高校ともに、みな古代から始める。4月になると気分も新たに、縄文時代や弥生時代を学ぶのである。年が明け、歴史の授業に飽きてきた頃、ようやく明治期に入り、あっという間に昭和期まで駆け抜ける。場合によっては近代の授業をはっしょっているところもあるようである。日本人の近代における歴史認識が乏しいのも、太平洋戦争を細かく教えないことに原因があると言える。

     しかし、ほとんどの国では、歴史の授業は現代からさかのぼって教えている。この方針は、現代を知るためには近代を知る必要があるという実学から来ているように思われる。

     中国では、中国ウン千年の歴史があるにもかかわらず、現代と近代の部分が、教科書の半分を占めている。清国・中華民国時代にいかに列強各国に占領されて虐げられてきたか、いかに中華人民共和国はすばらしいかを、トクトクと書いた教科書を用いて授業している。反日感情が強いのも、歴史教育の偏重による。大韓民国もまたしかりである。

     東洋医学を知るためには、自国の歴史やアジアの歴史に目を向けなければ見えてこないことがあまりにも多いということである。

    平成23年1月11日(火)
     清野充典 記
      


  • Posted by 清野充典 at 10:26Comments(0)ごあいさつ

    東洋医学とはどこの医学か

    2011年01月05日

     昨今、「東洋医学」という言葉が当たり前のように使われている。


     「医学」とは学問のことであるが、「医学」とはどんな学問であろうか。

     ノーベル医学賞って聞いたことがあるだろうか。

     「東洋医学」とはどこの医学であろうか。

     そもそも、「東洋」ってどこのことであろうか。

     今年の箱根駅伝で、惜しくも3連覇を逃したのは「東洋大学」である。

     東洋大学では、どんな学問を学んでいるのであろうか。

     私が在籍している大学は「大東文化大学」である。

     大東文化大学は、きな文化を学ぶ大学である。

     「東」ってどこのことであろうか。

     毎日鍼灸医学を追求し、毎日鍼灸医療を提供している。

     この世界に入って30年になろうとしている。

     疑問を1つ1つ解消するために学問する毎日を歩んできた。

     東洋医学について、1つずつ文字に書き著して往きたい。

    平成23年1月5日(水)  
     清野充典 記



      


  • Posted by 清野充典 at 18:31Comments(0)ごあいさつ

    新しいブログを開設しました

    2011年01月03日

    あけましておめでとうございます

     東京都調布市で東洋医学を研究している清野充典と申します。

     東洋医学に基づく医療を行う国家資格である「鍼灸師」の免許を取得してから、30年目の春を迎えております。

     今から約150年程前である江戸時代末期から明治時代初期の日本医学は、アジア地域において東洋医学の研究や医療は飛び抜けて高水準にありました。

     しかし、明治政府が近代文化を強く進める方針を取ったことにより、日本の生活様式や思考回路が欧米に大きく偏りました。

     医療の面に目を向けると、西洋近代医学に基づいた医療に大きく傾倒し、鍼灸治療や漢方治療が重要視されなくなりました。

     その結果、東洋思想に基づいた東洋医学が大きく後退し、現在行われている鍼灸治療や漢方薬治療ですら、西洋思想に基づいた医学となりつつあります。

     西洋医療の特長と東洋医学の特長が融合された医療が求められていますが、東洋医学の特長が医学者間で共通認識となっていないのが現状です。

     当ブログでは、東洋医学とは何かを追求している、清野充典が研究している内容をお伝えしたいと思います。

     東洋医学を勉強している医師・歯科医師や東洋医学が専門の鍼灸師・柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師及び医療現場・介護現場にいる全ての人に対し、東洋医学に対する共通理念を共有するための情報サイトとなることを目指し、週に1~2度綴りたいと思います。

     医学界にいる皆様と一緒に学びを深めたいと思っております。

     次回より皆様からのご意見、ご質問をお待ちしております。

    平成23年1月1日(土) 
     清野充典 拝
      


  • Posted by 清野充典 at 00:04Comments(4)ごあいさつ