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プロフィール
清野充典
 西洋医学を理解した東洋医学者の育成を目指し設立された世界初の鍼灸医学専門教育機関「明治鍼灸短期大学(現明治国際医療大学)」鍼灸学部を1982年(昭和57年)3月に卒業。中国に留学後、東京都調布市で1987年(昭和62年)に開業。東京都での開業は卒業生第1号。アジアや欧米で行われている鍼灸医療を各国に出向き探求しているうちに、日本で行われている鍼灸医療や中国等で行われている鍼灸医療の相違に疑問を持ち研究活動を開始。東洋思想の最高学府である「大東文化大学大学院」文学研究科博士課程前期課程中国学専攻を修了。中国哲学を背景とした中国医学が日本や世界においてどの様に発展したのかを探求している。世界に共通した鍼灸医学用語を用い、医療現場に共通する鍼灸治療体系を確立することが研究目的。鍼灸学士、中国学修士。現在、順天堂大学医学部医史学研究室に研究生として在籍。医学博士の学位論文を鋭意作成中。2013年(平成25年)4月明治国際医療大学(旧明治鍼灸大学)客員教授就任。

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Posted by たまりば運営事務局 at

中国医学の根源はどこにあるのか 2

2011年02月25日

 前回より、中国医学とは何かの検証を始めました。またまた今まで以上に訳分からんっていう内容です。でも、このことを避けて通ると、鍼灸治療とはどんな医療なのかを考えることが出来なくなります。ややこしいですが、ゆっくり私なりに論を進めてみたいと思います。

【本文】

 古代中国人が、

  1.「身体」をどのように捉えたのか

  2.「身体」の異常をどのように考えたのか

  3.中国で発達した医学とは何か

を、検証したい。「中国の医学」が、どのようなものであるのかということを考え、地球人類に対し、より有効な「医学」・「医療」を提供するための礎となる論を推し進めることが本文の目的である。

 そのためには、古代中国人の思想を検討する必要があると考える。まず、「古代」の時代区分を何時にするかという点について、私見を述べる。時代区分については、見解が様々である。

 主に、「中国歴史学」・「中国思想史」・「中国医学史」の立場でそれぞれ異なっている。

 第一に、「中国歴史学」の時代区分では、古代・中世・近世という三分法がとられることが多い。宮崎市定は、三分法にも三種の別があると述べている。その1は「古代=上古~戦国末、中世=秦漢~明末、近世=清初~現代」とする守屋美都雄の説である。

 その2は「古代(あるいは上古)=太古~後漢、中世(あるいは中古)=後漢~五代、近世=宋以降」とする内藤湖南の説である。

 その3は「古代=上古~唐末、中世=宋~明末、近世=明末~現代」とする説である。この説は、前田直典氏が昭和二三年に「東アジアにおける古代の終末」なる論文を発表したのが最初とされている。

 このほか、桑原隲蔵や那珂通世が提唱した四分法がある。それは「上古=太古~戦国末、中古=秦漢~唐末、近古=五代・宋~明末、近世=清以降」とする説である。

 宮崎は「古代=太古~漢代、中世=三国末~唐末・五代、近世=宋~清代、最近世=民国以降」なる区分を唱えている。整理すると、「中国歴史学」おける古代の下限は、1.戦国末とするもの、2.後漢末とするもの、3.唐末とするものが大方の見方のようである。

(つづく)
  


  • 中国医学の根源はどこにあるのか

    2011年02月17日

     4回にわたり、近代における日本と中国の医学・医療の歴史を振り返りました。話の内容はとても固く、興味のない方にはまるっきりおもしろくない話だと思いますが、毎日コンスタントに10人前後の方よりアクセスしていただいていることに驚いています。

     今日からは、近代の鍼灸治療のもとになった中国思想とはいったい何なのかを論じてみたいと思います。

     その前に、「近代」を何時と捉えるのかを言っておりませんでしたが、日本は明治期以降を想定してお話ししております。

     これから話を転じるのは、中国古代についてです。「古代」を何時とするのかを含めて、話を進めて参ります。

     【本文】

     「医療」を施すためには、身体の異常をどのように捉えるかが問題になる。

     「身体を分析すること」を「医学」だと定義するなら、「医学」と「医療」は一体でなければならない。

     「西洋の医療」は、「医学」に基づいて「医療」を構築してきた。そのため、「医学」と「医療」は比較的一致しているが、逆に医学が確立されていない「病気」に對し、「医療」を発展的に行うことが出来ないなどの弊害が生まれて来ている。

     これに対し、「中国の医学」は、「医療」が優先的に行われ、「医学」の構築が十分に行われて来なかった面がある。

     現状では、「医学」に基づいて「医療」を行っているとは言い難い。

     「医学」と「医療」に整合性が無いからである。

     しかし、古来より健康を逸脱したヒトを「病気」になったと捉え、「鍼灸治療」や「湯液治療」等の「医療」を「病人」に行って来たそれらの方法は極めて有効である。

     「医学」の構築が不十分であるにもかかわらず、有効な「医療」を生み出した根源は何処にあるのだろうか。

     もしあるとしたら、それはどんな点なのか素朴に知りたいところである。

    (つづく)

    平成23年2月17日(木)
     清野充典 記

      


  • 中国における「医」の呼称についての歴史

    2011年02月10日

     平成23年1月17日に、「中国における「医」の呼称についての歴史」について論じましたが、今日は中国についてです。比較して読んでいただければ、日本と中国の違いがよくお分かりになることと思います。東洋医学の専門家や文学者でないと難しい内容かと思いますが、ゆっくり時間をかけて歴史を楽しんでいただければ幸いです。

    【本文】

     中国における鍼灸治療・湯液治療に対する呼称は日本同様変遷している。

     中国地方では、清朝まで「医」と呼称していた。

     清朝の末期に当たる一九世紀末頃より、「中国医学」と呼ぶようになる。

     「中国医学」の語彙は『中國圖書聯合目録』に拠ると、清の唐宗海が清光緒二一年・一八九五年に書いた『中國醫學入門』上海書局石印本が初出である。

     「中国」の名稱が「中華民国」の略称として普及すると共に、一九三〇年頃から急速に「中国医学」が用いられるようになった。
     
     ただし、中華民国は、「国医学」と呼んでいた。

     中華人民共和国になり、「中医学」と呼ぶようになった。

     一九六六年~一九七六年の文化大革命時代は「祖国医学」と呼んでいる。

     一九七七年より再び「中医学」と呼称するようになる。

     一九八〇年代に入り「中西医結合」をスローガンに「中医学」と「西医学(西洋医学のこと)」の結合を計り、第三の医学確立を目指すが、一九九〇年代半ばに研究が頓挫する。

     その後「中医学」を世界に普及することを目的に方向転換し、現在は国外に対して呼称している「Traditional Chinese Medicine」を「中国伝統医学」と呼称し、「中医学」と併用している。

     以上のことから、中国で行われてきた医学・医療を呼称するにあたり、適切な名称が無いことが解る。

     中国で行われてきた医学に対する呼称をあえて論じてきたのは以上の理由による。

    (つづく)

    平成23年2月10日(木)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)










      


  • Posted by 清野充典 at 12:54Comments(0)中国の「醫」の呼称の歴史

    近代中国の鍼灸医学・医療の歴史 2

    2011年02月04日

     今日は、1月29日に書いた前回の続きです。話の内容は、読んだことも聞いたこともないような内容だと思います。ごく一部の人しか知らない内容です。ゆっくり何度も読み返していただければ、理解できると思います。単発で読んでもわかるかと思いますが、1月17日から読んでいただければより深い理解が可能だと思います。

     【本文】

     一八六八年の明治時代以降、中国では大量の日本書が翻訳され、中国で発達した医学の復興を目指した多くの中国人が日本に留学している。

     日本の医学者達が、一八〇〇年代(江戸時代)以後、西洋医学と東洋医学との融合を計ろうとしていた思想と当時の研究結果が受け入れられたというのがその理由であろう。

     この方針を基軸とした運動は中国新政府を動かし、一九五四年に中国で中国の伝統医学が一三二年ぶりに国家の医療として認められた。

     一九五五年に、北京で「中医研究院」が設立され、一九五六年に北京・上海・広州・成都に「中医学院」が設立される。

     以後、全国に「中医学院」が建校され、「中医学」の高等教育化が推進される。

     一九九三年には国家の基準を満たした「上海中医学院」が「上海中医薬大学」に昇格する。

     その後、漸次「中医学院」が「大学」に昇格し、二〇〇七年現在十一校が認可を受けている。

    (つづく)

    平成23年2月4日(金)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)