医学と医療 2
2011年05月22日
前回、医学と医療についての個人的な考察を述べました。今日はその続きです。
中国や日本で行われてきた医療は、医学の確立を念頭に置いていません。医療の体系化も念頭に置いていません。ただ、ひたすら目の前で苦しんでいる患者さんを、どの様にしたら良くなるか、どの様な方法を用いたら楽になるかと、日々追求してきたと言えます。
極端な言い方をすれば、明治期以前は、東洋医学は存在せず、東洋医療だけがあると言えます。
東洋医療の中の鍼灸医療を体系化する必要がある事に気づいてから15年目を迎えました。古代のひとは、体をどの様に捉えたのかという研究を行っています。
【本文】
「醫療」を施すためには、身體の異常をどのように捉えるかが問題になる。
「身體を分析すること」を「醫學」だと定義するなら、「醫學」と「醫療」は一體でなければならない。
「西洋の醫學」は、「醫學」に基づいて「醫療」を構築してきた。そのため、「醫學」と「醫療」は比較的一致している。しかし、醫學が確立されていない「病気」に對し、「醫療」を發展的に行うことが出來ないなどの弊害が生まれて來ている。
これに對し、「中國の醫學」は、「醫療」が優先的に行われ、「醫學」の構築が十分に行われて來なかった面がある。現状では、「醫學」に基づいて「醫療」を行っているとは言い難い。「醫學」と「醫療」に整合性が無いからである。
しかし、古來より健康を逸脱したヒトを「病気」になったと捉え、「鍼灸治療」や「湯液治療」等の「醫療」を「病人」に行って來たそれらの方法は極めて有効である。
「醫學」の構築が不十分であるにもかかわらず、有効な「醫療」を生み出した根源は何処にあるのだろうか。もしあるとしたら、それはどんな點なのか素朴に知りたいところである。
そこで、古代中國人が、
1.「人體」をどのように捉えたのか
2.「人體」の異常をどのように考えたのか
3.中國で發達した醫學とは何か
を、檢證したい。
「中國の醫學」が、どのようなものであるのかということを考え、地球人類に對し、より有効な「醫學」・「醫療」を提供するための礎となる論を推し進めることが本文の目的である。
(つづく)
中国や日本で行われてきた医療は、医学の確立を念頭に置いていません。医療の体系化も念頭に置いていません。ただ、ひたすら目の前で苦しんでいる患者さんを、どの様にしたら良くなるか、どの様な方法を用いたら楽になるかと、日々追求してきたと言えます。
極端な言い方をすれば、明治期以前は、東洋医学は存在せず、東洋医療だけがあると言えます。
東洋医療の中の鍼灸医療を体系化する必要がある事に気づいてから15年目を迎えました。古代のひとは、体をどの様に捉えたのかという研究を行っています。
【本文】
「醫療」を施すためには、身體の異常をどのように捉えるかが問題になる。
「身體を分析すること」を「醫學」だと定義するなら、「醫學」と「醫療」は一體でなければならない。
「西洋の醫學」は、「醫學」に基づいて「醫療」を構築してきた。そのため、「醫學」と「醫療」は比較的一致している。しかし、醫學が確立されていない「病気」に對し、「醫療」を發展的に行うことが出來ないなどの弊害が生まれて來ている。
これに對し、「中國の醫學」は、「醫療」が優先的に行われ、「醫學」の構築が十分に行われて來なかった面がある。現状では、「醫學」に基づいて「醫療」を行っているとは言い難い。「醫學」と「醫療」に整合性が無いからである。
しかし、古來より健康を逸脱したヒトを「病気」になったと捉え、「鍼灸治療」や「湯液治療」等の「醫療」を「病人」に行って來たそれらの方法は極めて有効である。
「醫學」の構築が不十分であるにもかかわらず、有効な「醫療」を生み出した根源は何処にあるのだろうか。もしあるとしたら、それはどんな點なのか素朴に知りたいところである。
そこで、古代中國人が、
1.「人體」をどのように捉えたのか
2.「人體」の異常をどのように考えたのか
3.中國で發達した醫學とは何か
を、檢證したい。
「中國の醫學」が、どのようなものであるのかということを考え、地球人類に對し、より有効な「醫學」・「醫療」を提供するための礎となる論を推し進めることが本文の目的である。
(つづく)
Posted by 清野充典 at 15:40│Comments(0)
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