日本における「医」の呼称についての歴史

清野充典

2011年01月17日 01:02

 これから、東洋医学について話を始める。おそらく初めて聞く(読む)話が多いことと思う。眠くなる話かと思うが、一気に読まず、何度も読み返していただければ理解可能かと思う。

 初回は、日本における「医についての呼称」から述べる。

 【本文】

 日本では、江戸時代まで「医学」とは言わずに「医」と呼称していた。
 
 「医」を行うものを特に規定していなかったが、学問をしている「僧」つまり坊主が主に行っていた。

 江戸時代まで「漢学」・「中国の医学」を受容してきた日本は、一五四三年(天文十二年)にポルトガルの船が種子島へ漂流したことにより、初めて西洋の文化を知ることになる。

 長崎の出島から入手する学問の多くはドイツ語の蘭訳本であったが、日本ではこれを「蘭学」と呼称し、蘭学を学んだ医者を「蘭(学)医」と呼称した。それに対比する言葉として「漢医」という名称が生まれている。

 一八五七年(安政四年)に「商館医」ポンペ ファン メールデルフォールト J.L.C.Pompe van Meerdervoortが長崎大学医学部の前身である「醫学伝習所」において近代医学を初めて日本人に教育してから一五〇年あまり經過したが、当時各国から書物が輸入研究されるようになったため、欧米の学問はほどなく「洋学」と呼称されるようになる。

 一八六九年(明治二年)に明治政府は「医学校」を「大学東校」と改称し、近代医学教育をする学部と日本古来の医学を教育する「皇漢医学部」が併設される。

 一八七四年(明治七年)に「医制」が施行され、医療は「医師」が行うこととなり、近代医学に基づく教育中心に移行した。また、「皇漢医学部」は廃止されたため、日本伝統の医学・医療が徐々に衰退する。

 一八八三年(明治一六年)に、今村了庵が、一八八七年(明治十年)に設立された東京大学に於いて講義されていた「東洋学」という名称に着眼し、医学部医史科の講義中に「東洋医学」の呼称を用いた。

 翌一八八四年(明治一七年)に、『溫知医談』(温知社)でその名称を紹介して以来、徐々にその名が普及し現在に至っている。

 以上が、「医」から、「漢医が行う医」となり、「皇漢医学」、「東洋医学」と呼称が変遷してきた、日本における「医についての呼称」の歷史である。

 なお、「蘭医が行う医」は、「近代医学」、「現代医学」といわれているが、「東洋医学」という言葉が民間で使われ始めた1980年代以降から、徐々に「西洋医学」といわれるようになってきた。

 近年は、「近代西洋医学」と「現代医学」という表現がよく用いられている。

(つづく)

平成23年1月17日(月)
 清野充典 記

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