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プロフィール
清野充典
 西洋医学を理解した東洋医学者の育成を目指し設立された世界初の鍼灸医学専門教育機関「明治鍼灸短期大学(現明治国際医療大学)」鍼灸学部を1982年(昭和57年)3月に卒業。中国に留学後、東京都調布市で1987年(昭和62年)に開業。東京都での開業は卒業生第1号。アジアや欧米で行われている鍼灸医療を各国に出向き探求しているうちに、日本で行われている鍼灸医療や中国等で行われている鍼灸医療の相違に疑問を持ち研究活動を開始。東洋思想の最高学府である「大東文化大学大学院」文学研究科博士課程前期課程中国学専攻を修了。中国哲学を背景とした中国医学が日本や世界においてどの様に発展したのかを探求している。世界に共通した鍼灸医学用語を用い、医療現場に共通する鍼灸治療体系を確立することが研究目的。鍼灸学士、中国学修士。現在、順天堂大学医学部医史学研究室に研究生として在籍。医学博士の学位論文を鋭意作成中。2013年(平成25年)4月明治国際医療大学(旧明治鍼灸大学)客員教授就任。

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Posted by たまりば運営事務局 at

医学と医療 2

2011年05月22日

 前回、医学と医療についての個人的な考察を述べました。今日はその続きです。

 中国や日本で行われてきた医療は、医学の確立を念頭に置いていません。医療の体系化も念頭に置いていません。ただ、ひたすら目の前で苦しんでいる患者さんを、どの様にしたら良くなるか、どの様な方法を用いたら楽になるかと、日々追求してきたと言えます。

 極端な言い方をすれば、明治期以前は、東洋医学は存在せず、東洋医療だけがあると言えます。

 東洋医療の中の鍼灸医療を体系化する必要がある事に気づいてから15年目を迎えました。古代のひとは、体をどの様に捉えたのかという研究を行っています。

【本文】
 
 「醫療」を施すためには、身體の異常をどのように捉えるかが問題になる。

 「身體を分析すること」を「醫學」だと定義するなら、「醫學」と「醫療」は一體でなければならない。

 「西洋の醫學」は、「醫學」に基づいて「醫療」を構築してきた。そのため、「醫學」と「醫療」は比較的一致している。しかし、醫學が確立されていない「病気」に對し、「醫療」を發展的に行うことが出來ないなどの弊害が生まれて來ている。

 これに對し、「中國の醫學」は、「醫療」が優先的に行われ、「醫學」の構築が十分に行われて來なかった面がある。現状では、「醫學」に基づいて「醫療」を行っているとは言い難い。「醫學」と「醫療」に整合性が無いからである。

 しかし、古來より健康を逸脱したヒトを「病気」になったと捉え、「鍼灸治療」や「湯液治療」等の「醫療」を「病人」に行って來たそれらの方法は極めて有効である。

 「醫學」の構築が不十分であるにもかかわらず、有効な「醫療」を生み出した根源は何処にあるのだろうか。もしあるとしたら、それはどんな點なのか素朴に知りたいところである。
 
 そこで、古代中國人が、
1.「人體」をどのように捉えたのか
2.「人體」の異常をどのように考えたのか
3.中國で發達した醫學とは何か
を、檢證したい。

 「中國の醫學」が、どのようなものであるのかということを考え、地球人類に對し、より有効な「醫學」・「醫療」を提供するための礎となる論を推し進めることが本文の目的である。

(つづく)
  


  • Posted by 清野充典 at 15:40Comments(0)医学と医療

    医学と医療

    2011年05月13日

     近代の鍼灸治療のもとになった中国思想とはいったい何なのかを論じるために、「中国医学の根源は何処にあるのか」を、5回にわたり検証してきました。

     ここでは、まず「上古より戰國末まで」と定義した「古代」の中国思想を見て参りたいと思います。

     中国思想を学ぶためには、中国地方にだけ目を向けても分かりません。人の流れは時代とともに移り変わります。それに伴い文明が生じ、文化交流が起き、言葉が変わります。用いる道具にも変遷があります。

     今日からは、医学と医療について述べていきます。本文は、正字(俗称旧漢字)にしています。

    【本文】

     人類の歴史は、相當長い。未だ特定できていないが、少なくとも四五〇萬年前に人類が誕生していることは確認されている。

     ヒトが、日常行う生活動作を十分營むことが出來なくなり、それを「病気」と捉えたときから「醫療」が始まったと考える。

     二〇世紀後半より「ギリシャの醫學」が「西洋の醫學」の基本思想に於いて土台となり、世界の中心的役割を担うようになったが、身體を捉える考え方は、「中國の醫學」、「インドの醫學」、「チベットの醫學」、「アラビアの醫學」などと比較して異なっている。それに伴い「醫療」も異なっている。

     世界で行われている「醫療」は多種多樣である。細かな點の違いを含めて考えると、「醫學」と「醫療」は、國の數・地域の數・ヒトの數ほどあると認識している。

     「鍼灸醫療」を行う現場にいる論者は、「病気」を取り除き、健康體を獲得することを目的として「醫療」を行っているが、同じ目的で行っていることでも、僅かに異なる思想の違いが、大きく異なる醫療技術を生み出す原因に繋がっていることを實感しているからである。

    (つづく)  


  • Posted by 清野充典 at 01:18Comments(0)医学と医療

    中国医学の根源はどこにあるのか 5

    2011年03月31日

      中国医学とはなにかの検証を4回目行ってきました。中国思想を学ぶ上で、「古代」とは何時を指すのかを論証してきましたが、今日は私なりの結論を出します。それに基づいて、次回より新たな話に入っていこうと考えています。
     前回更新してから、2週間近く経過しました。平成23年3月11日(金)に発生した東北関東大震災に伴い、東京を含む広範囲な地域で計画停電が行われています。不規則な生活に対応する必要性が生じたため、ゆっくり文字を書く暇がなくなりました。
     このブログは、私の研究活動に基づく内容ですので、時間を掛けないと書けない内容です。お読みになる方も時間を掛けてお読みいただいていることと拝察いたします。
     長くゆっくりとしたお付き合いの程を、お願いいたします。

    【本文】
     以上、主に「中國歷史學」・「中國思想史」・「中國醫學史」の立場で、それぞれの區分分けを檢討してきた。

     「古代」という用語は、近年一般的にかつ頻繁に用いられているが、特定された定義が無いということが解る。

     本論では、古代中國思想を背景に「中國の醫學」を檢討している立場を取っているが、醫學・醫療は、戰國末までに概ね形成されたのではないかという假説に基づき論理展開する趣旨のため、「古代」を「上古より漢代まで」と定羲して論を進めたい。

      また、「中世」は「魏~明末」、「近世」は「清初~現代」と定羲する。

    (つづく)  


  • 中国医学の根源はどこにあるのか 4

    2011年03月17日

     中国医学とはなにかの検証を始めて4回目です。最初から本文をお読みいただけますと、書いてある趣旨がお分かりいただける内容となっております。つまり、電子図書のような感覚をお持ちいただけると結構かと思います。
     今回書いている内容は、過去3回分からお読みいただいても、お分かりいただける内容となっております。
     中国思想を学ぶ上で、「古代」とは何時を指すのかを論証しています。
     時代を表す視点として、「中国歴史学」・「中国思想史」・「中国医学史」の観点から検証してみています。「中国歴史学」・「中国思想史」の視点ですでに論じました。今回は「中国医学史」の視点から論じています。
     なお、前回より、本文の漢字は、正字(旧漢字)のままで論じさせていただいております。

    【本文】
     第三に、「中國醫學史」の時代區分では、陳邦賢が「上古=周秦、中古=両漢・魏晋~隋・唐・宋・金元、近世=明・清、現代」と區分した。

     北京中醫學院では、「原始社会=太古~前二二世紀、奴隷社会=夏~商、封建社会(Ⅰ=西周~後漢末、Ⅱ=魏晋~五代、Ⅲ=宋~元、Ⅳ=明~阿片戰争)、半植民地半封建社会=鴉片戰争~中華人民共和国」と區分している。

     周凤梧は、「原始時代=遠古~紀元前2206年、夏・商=紀元前2206~前1135年、西周・春秋・戰国=紀元前1134~前247年、秦・漢=紀元前246~紀元219年、魏・晋・南北朝=紀元220~588年、隋・唐・五代=紀元589~959年)、宋・金・元=紀元960年~1367年、明・清=紀元1268~1911年、中華民国=紀元1912~1949年、中華人民共和国=紀元1949年始」と區分している。

     傳維康は、「原始社会の医療活動=太古~BC二十一世紀、夏~春秋時代の中国医学=BC二十一世紀~BC四七六年、戦国~後漢時代の中国医学=BC四七五年~AD二二〇年、魏・晋・南北朝の医学=二二〇年~五八一年、隋・唐・五代期の医学=五八一年~九六〇年、宋・金・元代の医学=九六〇年~一三六八年、明代の医学=一三六八年~一六四四年、清代の医学=一六四四年~一九一一年」と區分しており、中國では統一した區分が見られない。

     日本に於いて「中國醫學史」を體系化したものはまだ發表されていないと近年丸山敏秋は言っているが、それ以降も體系化はされていない。

    (つづく)

      


  • 中国医学の根源はどこにあるのか 3

    2011年03月06日

     中国医学とはなにかの検証を始めています。今日はその3回目です。前回、前々回の内容をお読みになった後、今回のブログをお読みいただきたいと思います。中国思想を学ぶ上で、古代思想は重要ですが、では「古代」とは何時を指すのかを論証しています。
     時代を表す視点として、「中国歴史学」・「中国思想史」・「中国医学史」の観点から検証してみています。前回は、「中国歴史学」の視点から「古代」を論じました。今回は、「中国思想史」の視点から論じています。
     なお、前回まで、本文の漢字は、現在用いられている簡体字に変換して論を述べていましたが、今回より正字(旧漢字)のままで論じさせていただきます。

    【本文】

     第二に、「中國思想史」の時代區分では、先秦・両漢・魏晋南北朝・隋唐五代・宋元明・清・民國以降と區分されることが多いようである。

     武内義雄は「上世期〔上〕=諸子時代(春秋末~前漢景帝)、上世期〔下〕=經學時代(前漢武帝~後漢)、中世期=三教交渉の時代(三國~唐玄宗)、近世期=儒教革新の時代(唐肅宗~現在)」と區分しているが、明確な區分について言及していない。
     
     「古代」は、多くの本で用いられているが、明確な定義を述べているものは見當たらない。

     自分なりに整理すると、1.上古より戰國末とするもの、2.漢初までとするもの、3.後漢末とするものの三種類を主に擧げられると考えられる。

    (つづく)  


  • 中国医学の根源はどこにあるのか 2

    2011年02月25日

     前回より、中国医学とは何かの検証を始めました。またまた今まで以上に訳分からんっていう内容です。でも、このことを避けて通ると、鍼灸治療とはどんな医療なのかを考えることが出来なくなります。ややこしいですが、ゆっくり私なりに論を進めてみたいと思います。

    【本文】

     古代中国人が、

      1.「身体」をどのように捉えたのか

      2.「身体」の異常をどのように考えたのか

      3.中国で発達した医学とは何か

    を、検証したい。「中国の医学」が、どのようなものであるのかということを考え、地球人類に対し、より有効な「医学」・「医療」を提供するための礎となる論を推し進めることが本文の目的である。

     そのためには、古代中国人の思想を検討する必要があると考える。まず、「古代」の時代区分を何時にするかという点について、私見を述べる。時代区分については、見解が様々である。

     主に、「中国歴史学」・「中国思想史」・「中国医学史」の立場でそれぞれ異なっている。

     第一に、「中国歴史学」の時代区分では、古代・中世・近世という三分法がとられることが多い。宮崎市定は、三分法にも三種の別があると述べている。その1は「古代=上古~戦国末、中世=秦漢~明末、近世=清初~現代」とする守屋美都雄の説である。

     その2は「古代(あるいは上古)=太古~後漢、中世(あるいは中古)=後漢~五代、近世=宋以降」とする内藤湖南の説である。

     その3は「古代=上古~唐末、中世=宋~明末、近世=明末~現代」とする説である。この説は、前田直典氏が昭和二三年に「東アジアにおける古代の終末」なる論文を発表したのが最初とされている。

     このほか、桑原隲蔵や那珂通世が提唱した四分法がある。それは「上古=太古~戦国末、中古=秦漢~唐末、近古=五代・宋~明末、近世=清以降」とする説である。

     宮崎は「古代=太古~漢代、中世=三国末~唐末・五代、近世=宋~清代、最近世=民国以降」なる区分を唱えている。整理すると、「中国歴史学」おける古代の下限は、1.戦国末とするもの、2.後漢末とするもの、3.唐末とするものが大方の見方のようである。

    (つづく)
      


  • 中国医学の根源はどこにあるのか

    2011年02月17日

     4回にわたり、近代における日本と中国の医学・医療の歴史を振り返りました。話の内容はとても固く、興味のない方にはまるっきりおもしろくない話だと思いますが、毎日コンスタントに10人前後の方よりアクセスしていただいていることに驚いています。

     今日からは、近代の鍼灸治療のもとになった中国思想とはいったい何なのかを論じてみたいと思います。

     その前に、「近代」を何時と捉えるのかを言っておりませんでしたが、日本は明治期以降を想定してお話ししております。

     これから話を転じるのは、中国古代についてです。「古代」を何時とするのかを含めて、話を進めて参ります。

     【本文】

     「医療」を施すためには、身体の異常をどのように捉えるかが問題になる。

     「身体を分析すること」を「医学」だと定義するなら、「医学」と「医療」は一体でなければならない。

     「西洋の医療」は、「医学」に基づいて「医療」を構築してきた。そのため、「医学」と「医療」は比較的一致しているが、逆に医学が確立されていない「病気」に對し、「医療」を発展的に行うことが出来ないなどの弊害が生まれて来ている。

     これに対し、「中国の医学」は、「医療」が優先的に行われ、「医学」の構築が十分に行われて来なかった面がある。

     現状では、「医学」に基づいて「医療」を行っているとは言い難い。

     「医学」と「医療」に整合性が無いからである。

     しかし、古来より健康を逸脱したヒトを「病気」になったと捉え、「鍼灸治療」や「湯液治療」等の「医療」を「病人」に行って来たそれらの方法は極めて有効である。

     「医学」の構築が不十分であるにもかかわらず、有効な「医療」を生み出した根源は何処にあるのだろうか。

     もしあるとしたら、それはどんな点なのか素朴に知りたいところである。

    (つづく)

    平成23年2月17日(木)
     清野充典 記

      


  • 中国における「医」の呼称についての歴史

    2011年02月10日

     平成23年1月17日に、「中国における「医」の呼称についての歴史」について論じましたが、今日は中国についてです。比較して読んでいただければ、日本と中国の違いがよくお分かりになることと思います。東洋医学の専門家や文学者でないと難しい内容かと思いますが、ゆっくり時間をかけて歴史を楽しんでいただければ幸いです。

    【本文】

     中国における鍼灸治療・湯液治療に対する呼称は日本同様変遷している。

     中国地方では、清朝まで「医」と呼称していた。

     清朝の末期に当たる一九世紀末頃より、「中国医学」と呼ぶようになる。

     「中国医学」の語彙は『中國圖書聯合目録』に拠ると、清の唐宗海が清光緒二一年・一八九五年に書いた『中國醫學入門』上海書局石印本が初出である。

     「中国」の名稱が「中華民国」の略称として普及すると共に、一九三〇年頃から急速に「中国医学」が用いられるようになった。
     
     ただし、中華民国は、「国医学」と呼んでいた。

     中華人民共和国になり、「中医学」と呼ぶようになった。

     一九六六年~一九七六年の文化大革命時代は「祖国医学」と呼んでいる。

     一九七七年より再び「中医学」と呼称するようになる。

     一九八〇年代に入り「中西医結合」をスローガンに「中医学」と「西医学(西洋医学のこと)」の結合を計り、第三の医学確立を目指すが、一九九〇年代半ばに研究が頓挫する。

     その後「中医学」を世界に普及することを目的に方向転換し、現在は国外に対して呼称している「Traditional Chinese Medicine」を「中国伝統医学」と呼称し、「中医学」と併用している。

     以上のことから、中国で行われてきた医学・医療を呼称するにあたり、適切な名称が無いことが解る。

     中国で行われてきた医学に対する呼称をあえて論じてきたのは以上の理由による。

    (つづく)

    平成23年2月10日(木)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)










      


  • 近代中国の鍼灸医学・医療の歴史 2

    2011年02月04日

     今日は、1月29日に書いた前回の続きです。話の内容は、読んだことも聞いたこともないような内容だと思います。ごく一部の人しか知らない内容です。ゆっくり何度も読み返していただければ、理解できると思います。単発で読んでもわかるかと思いますが、1月17日から読んでいただければより深い理解が可能だと思います。

     【本文】

     一八六八年の明治時代以降、中国では大量の日本書が翻訳され、中国で発達した医学の復興を目指した多くの中国人が日本に留学している。

     日本の医学者達が、一八〇〇年代(江戸時代)以後、西洋医学と東洋医学との融合を計ろうとしていた思想と当時の研究結果が受け入れられたというのがその理由であろう。

     この方針を基軸とした運動は中国新政府を動かし、一九五四年に中国で中国の伝統医学が一三二年ぶりに国家の医療として認められた。

     一九五五年に、北京で「中医研究院」が設立され、一九五六年に北京・上海・広州・成都に「中医学院」が設立される。

     以後、全国に「中医学院」が建校され、「中医学」の高等教育化が推進される。

     一九九三年には国家の基準を満たした「上海中医学院」が「上海中医薬大学」に昇格する。

     その後、漸次「中医学院」が「大学」に昇格し、二〇〇七年現在十一校が認可を受けている。

    (つづく)

    平成23年2月4日(金)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)   


  • 近代中国の鍼灸医学・医療の歴史

    2011年01月29日

     今日は、清国以降の中国医学・医療の歴史です。ほとんどの皆さんは、中国3000年とも4000年とも言われる中国で発祥した医学・医療は、ずーっと太古の頃から今まで継続して行われている、と思っていると思います。でも、実際は、近代になり中国国家は、自国の医学を136年間捨てています。今日は、そのあたりの話です。 

     【本文】

     中国では、一八二二年に「鍼灸の一法、由来已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究むところ奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。」という勅令が発せられた。つまり、「皇帝の体に鍼や灸をする行為は許されない。」というおふれにより、宮廷の太医院で鍼灸科が廃止されたのである。

     当然、皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけないこととなり、以来、鍼灸治療は衰退の一途を辿った。

     我が国に於いても、「明治初期に鍼灸治療をのぞいた漢方医の医療行為を認めず、復興運動が開始されるまでの三〇年間ほぼ断絶したため、日本の伝統医学が三〇〇年ほど後退した。」と真柳誠が言っているように、国家が医療として認めなくなった医学・医療の衰退は激しい。

     中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となる。

     一九四九年に設立された中華人民共和国以降も、鍼灸治療は国民医療として認められていない。新中国政府は、古代から清朝までの医学体系を医学・医療と認定しなかったためである。このことは、一九一一年に設立された、中華民国政府と同様の見解であった。

    (つづく)

    平成23年1月29日(土)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)   


  • 日本の鍼灸医学・医療の歴史

    2011年01月23日

     1月17日(月)に書いた内容はお読みいただけたでしょうか。内容は継続していますが、どこから読んでも理解できるように、なるべく短編完結型で書きたいと思っています。今のところ・・・・。耳慣れない言葉が多いと思いますが、専門家の皆様には、是非、お読みいただきたい・・・です。

     今回は、「日本の鍼灸医学・医療の歴史」についてです。

     【本文】

     日本に於ける鍼灸医学・医療の歴史は長い。

     四一四年に天皇が病に罹られた際、新羅の名医金武を日本に招き鍼治療を受けたが、これが日本に初めて鍼治療が伝来した史実である。

     その後、百済と交流していたが、五六二年に呉の人・知聰が中国から初めて来日している。彼は日本に帰化して薬書や明堂図など一六四卷を獻上している。

    以来、約一五〇〇年にわたり、継続して中国医学を受容して来たことに成り立つ長い歴史と、多くの優秀な研究者達による澤山の書籍が残されている。また、日本特有の治療技術が生み出され伝承されている。

     清野は、鍼灸治療および湯液治療に於いて、日本は中国に無い独自の理論体系を持ち、より安全で且つ高水準な鍼灸治療技術や独特な方法が開発されて来たと認識している。

     九八四年に丹波康頼が書いた『醫心方』は、明確な日本化の表れを示す最初の文獻である。わが国では、鍼灸治療が国家の医療として行われ、現在も国民医療として重要な役割を担っている。

     一九七八年より、鍼灸医学は高等教育化に移行し、二〇一〇年一月現在、大学院四校・大学九校が開学している。四月には大学が一一校になる予定である。

     日本は、一六〇〇年ほど前から現代にわたり、世界で唯一鍼灸治療を国家医療として継続している国である。

    (つづく)

    平成23年1月23日(日)
     清野充典 記

    (ただいま 6日に一度更新中)  


  • 日本における「医」の呼称についての歴史

    2011年01月17日

     これから、東洋医学について話を始める。おそらく初めて聞く(読む)話が多いことと思う。眠くなる話かと思うが、一気に読まず、何度も読み返していただければ理解可能かと思う。

     初回は、日本における「医についての呼称」から述べる。

     【本文】

     日本では、江戸時代まで「医学」とは言わずに「医」と呼称していた。
     
     「医」を行うものを特に規定していなかったが、学問をしている「僧」つまり坊主が主に行っていた。

     江戸時代まで「漢学」・「中国の医学」を受容してきた日本は、一五四三年(天文十二年)にポルトガルの船が種子島へ漂流したことにより、初めて西洋の文化を知ることになる。

     長崎の出島から入手する学問の多くはドイツ語の蘭訳本であったが、日本ではこれを「蘭学」と呼称し、蘭学を学んだ医者を「蘭(学)医」と呼称した。それに対比する言葉として「漢医」という名称が生まれている。

     一八五七年(安政四年)に「商館医」ポンペ ファン メールデルフォールト J.L.C.Pompe van Meerdervoortが長崎大学医学部の前身である「醫学伝習所」において近代医学を初めて日本人に教育してから一五〇年あまり經過したが、当時各国から書物が輸入研究されるようになったため、欧米の学問はほどなく「洋学」と呼称されるようになる。

     一八六九年(明治二年)に明治政府は「医学校」を「大学東校」と改称し、近代医学教育をする学部と日本古来の医学を教育する「皇漢医学部」が併設される。

     一八七四年(明治七年)に「医制」が施行され、医療は「医師」が行うこととなり、近代医学に基づく教育中心に移行した。また、「皇漢医学部」は廃止されたため、日本伝統の医学・医療が徐々に衰退する。

     一八八三年(明治一六年)に、今村了庵が、一八八七年(明治十年)に設立された東京大学に於いて講義されていた「東洋学」という名称に着眼し、医学部医史科の講義中に「東洋医学」の呼称を用いた。

     翌一八八四年(明治一七年)に、『溫知医談』(温知社)でその名称を紹介して以来、徐々にその名が普及し現在に至っている。

     以上が、「医」から、「漢医が行う医」となり、「皇漢医学」、「東洋医学」と呼称が変遷してきた、日本における「医についての呼称」の歷史である。

     なお、「蘭医が行う医」は、「近代医学」、「現代医学」といわれているが、「東洋医学」という言葉が民間で使われ始めた1980年代以降から、徐々に「西洋医学」といわれるようになってきた。

     近年は、「近代西洋医学」と「現代医学」という表現がよく用いられている。

    (つづく)

    平成23年1月17日(月)
     清野充典 記  


  • 東洋医学を知るための歴史

    2011年01月11日

     「東洋医学」を理解するためには、「東洋医学」の歴史を知ることが大切であると考える。

     「東洋医学」と言うようになったのは、明治以降であるが、何故「東洋医学」と言うようになったのかを知る人は少ない。

     「東洋医学」を紐解いていくためには、「明治期」の歴史を知ることが重要であると考えている。

     ところが、日本人はつい最近の時代である「明治期」をあまり知らない。これには理由がある。

     日本では、社会の授業は、小学・中学・高校ともに、みな古代から始める。4月になると気分も新たに、縄文時代や弥生時代を学ぶのである。年が明け、歴史の授業に飽きてきた頃、ようやく明治期に入り、あっという間に昭和期まで駆け抜ける。場合によっては近代の授業をはっしょっているところもあるようである。日本人の近代における歴史認識が乏しいのも、太平洋戦争を細かく教えないことに原因があると言える。

     しかし、ほとんどの国では、歴史の授業は現代からさかのぼって教えている。この方針は、現代を知るためには近代を知る必要があるという実学から来ているように思われる。

     中国では、中国ウン千年の歴史があるにもかかわらず、現代と近代の部分が、教科書の半分を占めている。清国・中華民国時代にいかに列強各国に占領されて虐げられてきたか、いかに中華人民共和国はすばらしいかを、トクトクと書いた教科書を用いて授業している。反日感情が強いのも、歴史教育の偏重による。大韓民国もまたしかりである。

     東洋医学を知るためには、自国の歴史やアジアの歴史に目を向けなければ見えてこないことがあまりにも多いということである。

    平成23年1月11日(火)
     清野充典 記
      


  • Posted by 清野充典 at 10:26Comments(0)ごあいさつ

    東洋医学とはどこの医学か

    2011年01月05日

     昨今、「東洋医学」という言葉が当たり前のように使われている。


     「医学」とは学問のことであるが、「医学」とはどんな学問であろうか。

     ノーベル医学賞って聞いたことがあるだろうか。

     「東洋医学」とはどこの医学であろうか。

     そもそも、「東洋」ってどこのことであろうか。

     今年の箱根駅伝で、惜しくも3連覇を逃したのは「東洋大学」である。

     東洋大学では、どんな学問を学んでいるのであろうか。

     私が在籍している大学は「大東文化大学」である。

     大東文化大学は、きな文化を学ぶ大学である。

     「東」ってどこのことであろうか。

     毎日鍼灸医学を追求し、毎日鍼灸医療を提供している。

     この世界に入って30年になろうとしている。

     疑問を1つ1つ解消するために学問する毎日を歩んできた。

     東洋医学について、1つずつ文字に書き著して往きたい。

    平成23年1月5日(水)  
     清野充典 記



      


  • Posted by 清野充典 at 18:31Comments(0)ごあいさつ

    新しいブログを開設しました

    2011年01月03日

    あけましておめでとうございます

     東京都調布市で東洋医学を研究している清野充典と申します。

     東洋医学に基づく医療を行う国家資格である「鍼灸師」の免許を取得してから、30年目の春を迎えております。

     今から約150年程前である江戸時代末期から明治時代初期の日本医学は、アジア地域において東洋医学の研究や医療は飛び抜けて高水準にありました。

     しかし、明治政府が近代文化を強く進める方針を取ったことにより、日本の生活様式や思考回路が欧米に大きく偏りました。

     医療の面に目を向けると、西洋近代医学に基づいた医療に大きく傾倒し、鍼灸治療や漢方治療が重要視されなくなりました。

     その結果、東洋思想に基づいた東洋医学が大きく後退し、現在行われている鍼灸治療や漢方薬治療ですら、西洋思想に基づいた医学となりつつあります。

     西洋医療の特長と東洋医学の特長が融合された医療が求められていますが、東洋医学の特長が医学者間で共通認識となっていないのが現状です。

     当ブログでは、東洋医学とは何かを追求している、清野充典が研究している内容をお伝えしたいと思います。

     東洋医学を勉強している医師・歯科医師や東洋医学が専門の鍼灸師・柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師及び医療現場・介護現場にいる全ての人に対し、東洋医学に対する共通理念を共有するための情報サイトとなることを目指し、週に1~2度綴りたいと思います。

     医学界にいる皆様と一緒に学びを深めたいと思っております。

     次回より皆様からのご意見、ご質問をお待ちしております。

    平成23年1月1日(土) 
     清野充典 拝
      


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